僕らはもう、無垢な新品には戻れない。団地の「ノイズ」が教えてくれる、不可逆なエスカレーターの乗り方。
かつて、団地暮らしが一種のステータスだった時代がありました。 水洗トイレにダイニングキッチン。 それは当時の「最先端」であり、人々の憧れの対象でした。
そんな僕も、団地で生まれ育った人間の一人です。 僕が住んでいた当時はもう「最先端」ではありませんでしたが、それでも同級生が多く住んでいて、夕方になれば敷地内で遊ぶ声が響く、それなりの賑わいがありました。
けれど、子ども心にオートロックのあるマンションや、綺麗な一軒家に住んでいる同級生を見て、「カッコいいな」と羨ましく思った記憶も鮮明に残っています。 大人になって色々な情報を得た今の僕にとって、団地はどこか少し恥ずかしくて、どちらかと言うとネガティブな印象を持たれやすい存在だったんだな、と感じています。
現代において、多くの人が憧れるのはやはりタワーマンションや、ピカピカの内装のリノベーション物件でしょう。 それに比べて今の団地は、エレベーターがない棟もあれば、薄暗い階段、古臭い間取り。 「不便で、古いもの」 そんなレッテルを貼られても仕方がない存在かもしれません。
ワクワクしない、という救い
新しい建物や、最新のガジェットは、僕らの気持ちをワクワクさせ、前向きにしてくれます。 「これがあれば生活が変わる」「もっと便利になる」という、未来への推進力(ブースト)です。
でも、僕がカメラを向けてしまう団地の風景には、その「ワクワク」はありません。 代わりに、胸をざらつかせるような「ノイズ」があります。
剥がれかけた塗装、不揃いな室外機、誰かが補修した跡。 それを見て感じることは、決してポジティブな感情だけではありません。 少しの寂しさと、痛みと、重み。 なんだか胸をギュッと掴まれるような感覚です。
団地には、そんな胸をざらつかせるような「ノイズ」が満ちています。 誰かの話し声だったり、夕飯の匂いだったり、壁の落書きだったり。 綺麗に整音された世界では消されてしまう、人間臭い雑音です。
「なんかエモいよね」という便利なフレーズで片付けることは難しく、もっと生々しくて、切実な何かがそこにはある気がします。
無理な明るさが生むノイズ
写真を編集する際、暗い部分を無理に明るく持ち上げようとすると、そこには必ずザラザラとした「ノイズ」が浮かび上がってきます。 一般的に、それは画質を損なう「邪魔者」です。 そんな邪魔者であっても、アプリを使えば一瞬で消し去れるし、誰もがそうやって、ツルッとした「綺麗な写真」を作ろうとします。 ノイズレスな写真の方が綺麗に見える人も多いでしょう。
でも不思議なことに、僕は時々、無性にこの「ノイズ」を感じたくなるのです。
現実世界におけるキラキラした新しいものや、ノイズレスな美しい世界は、決してこの安堵感を与えてはくれません。 現実世界の「ノイズ」は邪魔者として消さなくてもいい。不完全なままでいい。 ただそこに在ることを許してくれる。 そんなノイズを、今の僕は求めているのかもしれません。
強制的なエスカレーター
最近、ふと気づいたことがあります。 僕らの生きているこの世界は、ある意味、「絶対に戻ることのできないエスカレーター」のようなものなんじゃないかと。
生まれた瞬間、僕らは全員そこに立たされます。 途中で降りることは許されない。 「ちょっと待って」と止めることもできない。 「あの頃に戻りたい」と逆走することもできない。 ただひたすらに、時間という動力によって、僕らの意思に関係なく運ばれていくだけです。
新しくてキラキラしたものも、いつかは古くなる。 子どもの頃は無垢だった僕らも、大人になる事でいつかは傷つき、純粋さを失っていく。 それは誰にも止められない、無常であり平等なシステムです。
「ノイズ」から「粒子(グレイン)」へ
傷つかずに前に進むことなんて、出来ないと思いませんか? そう思うと、団地が纏っているあの古びた空気感が、少し違って見えてきました。
最初は、ただの邪魔な「ノイズ」だと思っていました。 あのマンションや家のようにもっと綺麗ならいいのに、もっと新しければいいのに、と。 でも、カメラ越しにじっと見つめていると、それはノイズではなく、写真に深みを与える「粒子(グレイン)」のように見えてくるのです。
写真において、デジタルの意図しないザラつきは「ノイズ」と呼ばれ嫌われますが、フィルム写真のような質感のあるザラつきは「粒子(グレイン)」と呼ばれ、色の深みを演出し、味わいとして愛されます。
団地の壁のシミも、錆びた手すりも、そこにある生活音も。 それらは除去すべき「劣化やノイズ」ではなく、長い時間をかけて積み重なった、その場所にしかない「粒子という名の質感」なのかもしれません。
上りか、下りか。唯一の選択
エスカレーターを止めることはできませんが、たった一つだけ、僕らに許されている選択があります。 それは、「そのエスカレーターを、上りのものとするか、下りのものとするか」です。
ただ「古くなった」「若さを失った」と嘆きながら、暗い地下へ降りていく人生にするのか。 それとも、傷や補修跡を「自分だけの粒子」と捉え、味わい深いものとして高い場所へ登っていく人生にするのか。
団地は、内装や外装のリペアを受けながら、今も多くの人の営みを担っています。 ボロボロになりながらも、そこで生活が続き、記憶が積み重なっている。
その姿は、僕にこう語りかけてくる気がします。 「新品のままじゃなくていい。傷だらけになりながら、それでも進め」と。
「大人」とは傷すら愛おしく思えること
僕の身体も心も、もう新品ではありません。 これから先、もっと傷つくし、もっと古びていくでしょう。 かつて憧れた、キラキラした場所には行けないかもしれない。
でも、この不可逆なエスカレーターの上で、僕は「団地のような生き方」を選びたい。 自分の傷や劣っていることを隠すのではなく、愛すべき粒子として受け入れる。 不器用なまま、何度もリペアを繰り返して進んでいく。
もし今の自分に自信を失いそうになった時には、一度団地を眺めてみたら何かを感じるかもしれません。 その傷を愛おしく思うことが出来れば、あなたの乗っているエスカレーターは、きっと上りになっているでしょう。