未完成な僕は最強になれない。この劣等感を「未完の美」と呼んでみる。

半年前から、筋トレを始めました。 僕は身長から体重を引くと120程度になる、いわゆる「痩せ型」タイプです。 元々運動は苦手で、過去に何度か筋トレに挑戦しては三日坊主で終わっていたのですが、今回は不思議と半年続いています。身体も少しずつ、変化してきました。


鏡に映る滑稽な自分

そんな僕ですが、最近、痩せ型の人間にはかなり勇気のいるデビューを果たしました。

ジムでのトレーニング時に、タンクトップを着始めたんです。

最初はもちろん、恥ずかしかったですよ。 周りのマッチョな人たちと比べたら、僕は圧倒的なヒョロガリ。鏡に映る自分の姿を見て、僕が真っ先に笑ってしまいました。「あいつ、あの細さでタンクトップ着てるよ」なんて滑稽に見えているんじゃないかと、自意識過剰になっていました。

でも、タンクトップには大きなメリットがあったんです。 腕のトレーニングをすると、筋肉が動いている様子や、パンプアップ(膨張)していく過程が目に見えて分かる。「お、自分はいま変わろうとしているぞ」という実感が湧いて、筋トレが楽しくなるんです。

それに気づいてからは、他人の目なんて気にならなくなりました。そもそも、ジムという密室の中で、誰も僕の服装なんて見ていないんですよね。最初の不安は、僕が勝手に作り出した幻だったんです。


終わりのない垂直競争

振り返ってみると、僕らはつい自分と他人を比べてネガティブになりがちです。

あの人の方がフォロワーが多い、写真が上手い、お金がある、いい筋肉をしている……。 数え上げたらキリがありません。

「この人に負けてる、劣っている」と感じた時、僕らの選択肢は限られてしまいます。 相手を超えるために必死で努力するか、諦めてしまうか。あるいは、自分より下の人を見つけて安心しようとするか。 どれを選んでも、なんだか苦しいですよね。

「超えてやる!」と努力して勝ったとしても、その上にはまた別の「敵」が現れる。終わりのない垂直の競争を登り続けるのは、気が遠くなる作業です。


「最強」がつまらない理由

最近、異世界転生モノのマンガやアニメが増えましたよね。

僕もあのジャンルの、主人公がいきなり最強の力を手に入れて無双するストーリー、爽快感があって大好きです。男子なら一度は憧れるシチュエーションでしょう。

でも、ふと思うんです。最初から「最強」で「完全」な主人公の物語は、50巻も60巻も続かないんじゃないか、と。

長く愛される物語の主人公って、だいたい「不完全」なんです。 弱かったり、泣いたり、大切なものを失ったり。それでも意味を見つけながら、読者と一緒に泥臭く成長していく。 欠けている部分があるからこそ、そこにドラマが生まれ、物語は続いていくのだと思います。

これって、写真にも通じるところがあるなと気づきました。


感情の揺れと、写真のブレ

写真には、水平垂直をきっちり取る、手ブレさせない、ピントを合わせるといった「美しく魅せるためのセオリー」があります。

でも、今この瞬間をどうしても残したい!と心が動いてシャッターを切った写真は、手ブレしていたり、ピントが甘かったりすることも多い。 以前の僕は、それを「人に見せるものとしては失敗作だ」と捉えていました。

でも、今はこう思うんです。 「心が動いたから、興奮したから、ワクワクしたから写真に残した」 その「感情の揺れ」が、物理的な現象として「写真のブレ」になっただけなんじゃないか、と。

そもそも感情が揺れなければ、写真を撮ろうとすら思わなかったはずです。 後から見返して、「あの時、慌てて撮ったからブレちゃったなぁ」と笑いながら思い出せるなら、それだけで写真として成立しているのではないでしょうか。

未完の美(ノン・フィニート)

芸術の世界には「ノン・フィニート(未完の美)」という言葉があります。

ミケランジェロの彫刻のように、あえて完成させずに石の肌合いを残すことで、そこから何かが生まれようとする生命力や想像の余地を感じさせる技法です。

これは、街の風景にも言えます。 完成された綺麗なビルよりも、鉄骨がむき出しで、クレーンが伸びている工事現場の方に、なぜか目を奪われることはありませんか? それはきっと、そこに「これから何者にでもなれる」という、未完成ゆえのエネルギーを感じるからだと思うのです。

そう考えると、「不完全」であることは「劣っている」ということではありません。 それは、これから何かが描かれるための「余白」なのだと思います。

不完全の海を泳ぐ

この人の写真、ブレてて全然ダメだな。

そう思う人がいてもいい。 一方で、そこに躍動感や、その場の空気の揺らぎを感じ取ってくれる人もきっといる。

だからまずは僕自身が、僕の生み出したものを否定しないことから始めようと思います。 ヒョロガリなタンクトップ姿も、感情のままにブレた写真も。 不完全という「余白」に、これから自分だけの色を塗っていく。

そう捉え直すだけで、人生という物語は、もっと長く、もっと楽しいものになる気がしています。

完全であることは美しいけれど、不完全であることは楽しい。 僕らはみんな不完全なまま、それぞれの物語を楽しんでいけばいい。

広い海の中で競争したがっていたのは、もしかしたら僕だけだったのでしょうね。

前へ
前へ

僕らはもう、無垢な新品には戻れない。団地の「ノイズ」が教えてくれる、不可逆なエスカレーターの乗り方。

次へ
次へ

無意味から意味を見つける