無意味から意味を見つける
「なんで僕はこんなことをやっているんだろう?」
写真をレタッチしながら、ふとそんなことを考えることがあります。
SNSでの反応は微々たるもの、フォロワーが増えるわけでもない。
客観的に見れば、確かに「無意味」な時間の使い方かもしれません。
でも、不思議なことに僕は写真をやめられずにいます。
そして最近、その理由がなんとなく分かってきました。
他人の真似から始まった劣等感
先日、instagramに投稿する写真をレタッチしていた際にとあることを感じました。
なぜこの写真を撮ったのだろう?と考えた際に、これはその時Instagramで見かけたとあるフォトグラファーの写真がすごくカッコいいと感じて、僕も同じ場所に行って撮影した写真だなということを考えていました。
撮影した時は嬉しい気持ちとワクワクした気持ち、どうして自分はあの人のように撮れなかったんだろうというモヤモヤ。
色んな気持ちが渦巻いていました。
同じようにレタッチをしようとしても色合いもシャープさも違う。
僕は下手なんだなぁとほろ苦い思い出が詰まっていました。
フォロワーやいいねの数が決める「上手さ」の基準
他の人が出来ていえることを自分が出来ないと“悔しい”や“自分は劣っている”と感じることって皆さんはありませんか?
その感覚と似ているのだと思います。
でも、仮に僕があの人と全く同じような写真、もしくはそれ以上のクオリティの作品が出来上がったとしても他者からの評価はきっと僕の方が少ないと感じるでしょう。
なぜなら僕の方がフォロワーが少ないから。だから僕は写真が上手いと自信が持てない。スポットライトを浴びない限り自分の能力が実感できない。
ここに回帰するのだと思います。
見えない誰かに支配された「好き」という感情
“自責”とか“他責”とかって言葉がありますが、僕はこの言葉が嫌いです。
これって相互が“自責”に立って考えないと破綻すると思いませんか?
片方は自責で、もう片方は他責だったら成り立たないと考えています。
でも、僕のフォロワーが少ないことも周りからの評価が低いことも これはただ単に僕に責任があるのだ。
そう考えていました。
このスパイラルに陥ると全てが楽しいと思えなくなります。
他者からの評価でしか“快”と感じられなくなるからです。
自分が好きな趣味であり、ある意味写真は僕のレゾンデートルであるのに
そこにスポットライトが当たらないのは全てが僕の責任というわけではない。
そう思う強さが必要なのではないかと今は思います。
「無意味だ」と感じた瞬間に潜む意味
他者からの評価に自分の全てが掛かっているような考え方は一刻も早くやめた方がいいと思っています。
自分の好きも嫌いも選ぶことが出来ず、生殺与奪の権を見えない誰かに渡しているのと同じではないでしょうか?
だから評価されないことを大げさに言うと、それをやる意味がないということになります。
どうせ無意味だと感じてしまう。虚無的な思考。
僕は写真以外においても、この虚無的な考え方が非常に多いと自己分析しています。
みんなが好きだから、流行っているから僕も好きにならなくては、取り入れなくては。
これって楽しいのだろうか。
虚無感を昇華する「アンチニヒリズム」という思考
「アンチニヒリズム」という聞き慣れない言葉ですが皆さんご存じでしたか?
僕はつい最近意味を知りました。
無意味や価値を感じないと思ったり、言われてもそこに価値を見出していく思考のことを言うようです。
意味や価値を否定して虚無的な“ニヒリズム”とワードは似ていますが対極なわけでもないです。
アンチニヒリズムが面白いなと思った理由としては 一度、虚無感を味わっているのだろうなというところです。
これが正しいかは分からないですが、虚無感を味わっていないのにそこから価値を見出していこうとはならないと推察しています。
「自分の写真なんて誰にも見られていない、お金になるわけでもない。だから無意味だ」
この虚無感だけで終わっていたらそれは“ニヒリズム”的な思考であり
「この写真を撮った時は〜だったな」と思い出を“写真”という媒体で創り上げたこと。
「なんかレタッチが前より上手くなったな」と自分の能力が上がったことに気づくこと。
そういった別の価値軸を見つけていく思考のことを“アンチニヒリズム”と表現するのだと思います。
いつも写真をレタッチする際に考えていることがあります。
・撮影した時の雰囲気や思い出の余韻に浸る
・もう少しこうやって撮れば良かったなぁという反省
・ これいいじゃん!という自己肯定
これらは全て、自分の行動に意味を持たせているから、持たせようとしているからこそ
生まれてくる感情だと思いますがいかがでしょうか?
僕は「写真」は刹那的な趣味だと考えています。
今、レタッチしているこの写真は次もまた同じものは撮れないだろう。
そんな風に考えています。
もう二度と同じ風景は撮れないです。 僕以上の写真を撮ることは出来ますが
僕と同じ写真は誰にも、僕自身にも撮ルコとはできないです。
だから僕はシャッターボタンを1回押すごとに世界で唯一のものを創り上げています。
そう考えると何て趣のある趣味なのだろうと実感します。
そこに気づいたことで、僕が写真を続けている理由や意味が自分の中で理解できたのだと思います。
意味を持たせられるのは見えない誰かなのでは無く、他ならぬ自分自身なのでした。
アンチニヒリズムは一種の物語
葛藤と苦悩があったからこそ、そこから昇華していくことにストーリー性を感じて、これは面白いなと思いましたが皆さんはどう思いますか?
偉そうに言うわけではないですが、きっと2022年からInstagramのフォロワーもあまり増えていないです。
個展をやったり、作品を販売するようになったわけでもないですし 周りからの評価というやつは何も変わっていないのだろうと思います。
でも、このサイトのようなポートフォリオ兼ブログを作成しました。
撮影技術もレタッチ技術も間違いなく向上しています。
考え方も “あの人のような写真を撮りたいな” ではなく、”あの人の技術や技法を自分のスタイルに取り入れたいな” という考え方になったと最近は実感します。
アンチニヒリズム。
これは虚無感を知っているからこそ価値観や考え方を自ら創造して進化していく。
非常に面白い考え方であり、僕もいつの間にか経験していました。
皆さんも何かに行き詰まった時、『これは無意味だ』と感じた時こそ、一度その虚無感を受け入れて、そこから別の価値軸を探してみてください。
きっと今まで見えなかった意味が見つかるはずです。
虚無感を受け入れることが、意味を持たせることの一歩目になります。