僕は油粘土でいい—情報過多時代の飽き性という才能
僕は非常に飽き性だ。
衝動で何かを始めたいとスイッチが入ると、もうその事ばかりが頭に残り、色々と調べたりレビューを見たり、Redditで海外の情報まで調べたりしてしまう。最近はAIがかなり便利になったので、なんでもClaudeに聞いて、考えや調べた情報をまとめたりしている。
そこまで情熱的になっているのだから継続して、結果が出るのだろうと思うが、不思議と急に熱が冷めて飽きてしまう。結論、何も身に付かないような虚しさを感じることも稀にあります。
皆さんもそういうことないでしょうか?
でも最近、ふと思ったんです。もしかして僕らが「飽きやすい」のは、情報で満腹になってしまうからなんじゃないかって。
なぜ僕らは情報で満腹になるのか
現代って、本当に便利ですよね。何かに興味を持った瞬間、スマホ一つで世界中の情報が手に入る。YouTubeで「完全攻略法」を見て、Twitterで「3ヶ月で結果を出した人」のツイートを読んで、ブログで「失敗しないコツ」を学ぶ。
気がつくと、まだ何も始めていないのに「もう知ってる」感覚になってしまう。
これって、レストランでメニューを30分眺めて、料理の写真をたくさん見て、レビューを読みまくった結果、お腹いっぱいになって帰ってしまうようなものじゃないでしょうか。実際に食べてもいないのに。
僕がADHDの処方薬を服用しているのは多動性を抑えるためですが、飽き性は抑制することは出来ていないと思っています。これはADHDの特性ではなく、現代社会に生きる僕らみんなが抱える問題なのだと思うようになりました。
「飽き性」というネガティブワードを疑ってみる
"飽き性"というワードは非常にネガティブな印象を持つので、考え方を変えたいなと思っています。
そんな時に出会ったのが「可塑性」という考え方でした。
可塑性について
"かそせい"と読むらしいです。僕も調べるまで聞いたことも正しい読み方もわかりませんでした。
フランスの哲学者マラブーという方の考え方だそうです。例えるならば、"粘土"です。上から押し潰したらその粘土は潰れた形のままになります。動物の形を作ったら、それは動物の形を維持し続けますよね。
物質が外からの力を受けて変形した後の形を維持する性質のことを"可塑性"というそうです。
マラブーは、人間も可塑性であると考えています。
確かに、考え方や自分の振る舞いは生まれてからずっと同じであるわけではないですよね。色々な刺激や経験、失敗によって柔軟に形を変えて、適用しようとする。多くの人はこれを"成長"と呼んでいるのだなぁと。
自分の考えを絶対に変えない、曲げない人もいますし、柔軟に周りに合わせようとする人、多種多様ですが、これは紙粘土と油粘土の違いと似てるなと思うと、可塑性の考え方は非常に面白くないですか?
情報時代の可塑性—なぜ「体験」が必要なのか
でも、ここで現代特有の問題があります。
僕らは情報で「知った気」になることで、実際に手を動かして形を変える前に、もう次の情報に向かってしまう。これって、粘土をこねる前に「粘土ってこういうものだよね」って理解した気になって、実際には何も作らないようなものじゃないでしょうか。
ニーチェはこう考えていました。自分に身についたものは、変化がなくて飽きてしまうと。成長を続けている人は、常に変化の中にいるから"飽きる"ということがないという考え方です。
確かに毎日ずっと同じことをし続けられる人はすごいなと僕は思います。でも、もしかして現代の「飽き性」って、情報による擬似体験で成長した気になって、実際の体験による本当の変化を求めているサインなのかもしれません。
写真で学んだ「試行回数」という宝物
僕の写真体験を振り返ってみると、たくさんの"飽き性"が存在していました。
例えば機材。SONYに始まり、FUJIFILMからNikonへ移行したり。レンズは資産と言われているのに、それらは全て下取りに出せば購入費用が抑えることは出来ますが、多少の支払いは発生してしまいます。僕は資産を下取りして、むしろ支払いが増えて負債になってしまったこともあります(笑ってください)
でも、3つのメーカーを触ったからこそ各社の特徴や、色の表現方法に違いがあることに気づけた。これって、レビュー動画をいくら見ても絶対に分からないことでした。
忖度やステルスマーケティングを気にせずにありのままの自分なりのレビューだけがそこには存在していると思いませんか?
撮影スタイルもそうです。最初は風景写真ばかり撮っていたのに、突然海外フォトグラファーに感化されてストリートスナップに情熱的になって、時間が経つと急にミニマルフォトに興味が出始めて。
レタッチについても、何でも青にしてシネマティックだと悦に浸っていた時期や、突然ハイコントラストの表現に目覚めたり、ダークな雰囲気の表現に興味を持ったり。
これらはすべて「飽きた」結果です。でも、飽きたから無気力にならずに、すぐ別のことに興味を持って取り組んだ。完成品は少なくとも、挑戦している数、つまり試行回数は多いのではないでしょうか。
SNS時代の「一貫性の呪縛」から解放されよう
現代のSNSって、「〇〇な人」というアイデンティティを維持し続けなければならないプレッシャーがありませんか?
「風景写真家です」って一度言ったら、ずっと風景を撮り続けなければならない気がする。「ミニマリストです」って言ったら、シンプルな投稿しかできない気がする。
本当は美容の話をしたいのに、ゲームの話をしたいのに、フォロワーからのエンゲージメントを高めるためにはブランディングが〜、
一貫性が〜ということを気にしてしまう。
でも、それって本当に必要なことでしょうか?
僕にとって写真というものは、人生で初めてくらい続いている趣味です。写真という土台の上に建つものは変化し続けていますが、基礎は変わっていないのではないでしょうか。
僕は僕以外には成れないのです。
SNSでもなく、現実世界の人間関係でもなく、このブログが存在している意味はそこにあるのだと思います。
飽きは悪ではない—油粘土の強さ
飽きるは悪ではない、とマラブーもニーチェも教えてくれました。
情報過多時代だからこそ、僕らには柔軟に形を変える力が必要なのかもしれません。AIが答えを教えてくれる時代だからこそ、自分で手を動かして試行錯誤する体験が貴重になる。
1つのことを極めている人を深く尊敬しますが、僕はそうはなれないのだなぁと。なれないものになろうとしてもそれを自分が望まないのであれば、楽しく感じることはないと思っています。
楽しくないことをやらなければならないのは苦痛ではないでしょうか?
僕は油粘土でいい
ある意味、人は自分の欠点や弱さを受け入れることでまた変形するのではないかなと考えています。
自分は弱いんだ、と飲み込むのではなく、弱い部分だけど、これは強いなというものを探せばいいだけだと思っています。
1つの花だけがたくさん咲いている場所も好きですが、僕は欲張りなので色々な花が咲いている場所の方が好きです。自分が過去に飽きてしまった事象を例えるならば、環境に合わなくて枯れてしまうこともある。ただそれだけなのだと楽観的に考えています。
だから僕は、少し刺激を受けただけで形が変わってしまう油粘土のままでいいのです。
情報で知った気になるのではなく、実際に手を動かして、失敗して、また形を変える。その繰り返しこそが、AI時代を生きる僕らの武器なのかもしれません。
皆さんは、どんな粘土でいたいですか?