好きを探す旅
脳のリミッターを外すって、一体何なんだろう?
先日、ジム・クイックという全米一の脳コーチが語る「脳のリミッターの外し方」という話を聞いたんです。彼は制限的な信念をポジティブな信念に置き換えることで、人間の無限の可能性を引き出せると言っていました。
で、ふと思ったんです。僕がなぜ写真が好きなのか、一度整理し直してみようって。好きなものをもっと好きになれたら、きっと人生がもう少し豊かになるんじゃないかと。
そんな単純な動機から始まった自問自答が、思いがけず深い気づきに繋がった話をしたいと思います。
写真愛を解剖してみたら見えてきたもの
まず、なぜ僕が写真を好きなのか、素直に書き出してみました。
雲を見た時に「あ、これ○○みたいな形してる」って大人になった今でも思うこと。きっと想像することが好きなんです。小説を読みながらその世界観を頭の中で映像化するのも昔から大好きでした。
自分が気に入った写真を見た時の「うわぁ!」という宝物を見つけたような高揚感。そこから考えられる世界観、写真に写っていない場所を想像することの楽しさ。
カメラを持って街を歩きながら、普段は見ないようなものを探してシャッターを切って、自分だけのコレクションが増えていく感覚。子どもの頃に知らない場所に行った時のワクワクする冒険感を味わえること。
レタッチ時に「この時こうだったんだよなー、この後こうだったんだよなー」と、その写真に紐づいた思い出を思い返せる感覚。
ジム・クイックの話の中でMBTI診断というものが話題に出ていたためこれを早速僕もやってみた。
結果を整理してみると、僕は想像力豊かな物語創造者であり、独自の世界を持つ探究者なんだなと気づきました。
この結果を全て信じることは愚かかも知れないけれど、新たな自分が見えるのってなんか楽しいよね。
でも、そこには隠れたリミッターがあった
ジム・クイックの動画では、自分自身にかけているリミッターについての話題が前半は多くありました。
その時に気づいたのは、僕の中にある制限的な信念とは何かということです。
写真展に行ったり、SNSでバズっている写真を見てもワクワクすることが少ない。そして「これはSNSウケがいい写真だな」と感じてしまうと途端に萎えてしまう。
自分の世界観を人に伝えて一緒に盛り上がれたら嬉しいけれど、「きっと人には理解してもらえないだろう」「退屈だろうな」と自信を持てない。
みんなが好きなものが苦手で、SNSでの写真の魅せ方やテクニック、「○○すればバズる」みたいな情報を見ても興味は持つけど継続しない。
つまり、「受け入れられないだろう」というリミッターが僕の写真愛にブレーキをかけていたんです。
「これ、すげえだろ!」という魔法の言葉
この整理をしながら、ふと思ったことがありました。
僕が写真で求めているのは、他の人とは違う「これ、すげえだろ!」を探す旅なんじゃないかって。
SNSでバズる写真って、ある意味「みんなが納得する美しさ」を狙ったものが多い。でも僕が求めているのは「自分だけが気づいた特別な瞬間」。それは確かに万人受けしないかもしれないけれど、だからこそ価値があるんじゃないでしょうか。
街角で他の人が通り過ぎてしまうような瞬間に「おっ!」って気づく。雲を見て何かの形を見つける。それって、僕にしか見えない世界なんですよね。
その「すげえだろ!」を堂々と楽しめるようになったら、写真がもっと自由で楽しいものになりそうです。
共感されたい気持ちはリミッターなのか?
でも、ここで新たな疑問が生まれました。「この感動を誰かと分かち合いたい」という気持ちも、結局はリミッターなんでしょうか?
いえ、これは全然リミッターじゃないと思うんです。むしろ、その気持ちこそが写真愛を深める大切なエネルギーじゃないでしょうか。
リミッターになるのは:
- 「どうせ理解されない」という前提での諦め
- 共感されることを恐れて表現をやめること
- バズることを目的にして本来の感動を見失うこと
でも「共感してもらえたら嬉しい」は:
- 自分の発見への愛があるからこその気持ち
- 相手との深いつながりを求める健全な欲求
- 写真を通じたコミュニケーションへの憧れ
その気持ちは大切にして、ただ「受け入れられないかも」という不安に支配されないようにすればいい。共感される・されないに関係なく、まずは「すげえ!」を見つける旅を続ける。そうしたら、きっと同じような感性を持つ人が現れるはずです。
恥というリミッターとの向き合い方
人の感情やストーリーを語ったり文字にすると、「ポエマー」と揶揄されることもあります。「臭いなー」って思われたらどうしようという恥のリミッター。
でも考えてみてください。僕が雲を見て「○○みたい」って思ったり、写真から物語を想像する感性って、まさにその「ポエマー」的な部分から生まれてるんじゃないでしょうか。
「臭い」って思う人もいるかもしれないけれど、同時に「この人の感性、めちゃくちゃ面白い」「こんな風に世界を見てるのか」って感動する人もいるはずです。
「恥ずかしい」って感じるのは、その感性が本物だからこそ。偽物だったら、そもそも恥ずかしがる必要もないですからね。
デカルトと写真と存在理由
ふと、フランスの哲学者デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という言葉を思い出しました。これはデカルトが哲学者であることのアイデンティティでもあり、レゾンデートルなんですよね。
僕にとって写真もそういうものになればいいなと思うんです。
「我撮る、ゆえに我あり」とでも言えるでしょうか。
僕が雲を見て物語を想像し、街角で「これ、すげえだろ!」を発見し、レタッチしながら思い出に浸る。その一連の行為こそが、僕らしさそのものなんですよね。
デカルトが疑い続ける中で「疑っている自分」だけは疑えないと気づいたように、僕も「感動している自分」「発見している自分」「想像している自分」は疑いようがない。それが写真を通じて表現されている。
そう考えると、「ポエマーっぽい」とか「恥ずかしい」とかいう外部の声なんて、どうでもよくなりませんか?
「僕だから撮る」という最終答案
写真が好き、撮ることが好き。自分の好きなことはそれだと胸を張って言える。だからこそ写真をなぜ撮るのかと聞かれたら、それは「僕だから」という理由になっていくんだと思うんです。
「僕だから撮る」
これって、もう他に理由は要らないんですよね。誰かに認められるためでも、SNSでバズるためでも、上手いと言われるためでもない。ただ、僕が僕であることの自然な表れとして写真がある。
鳥が飛ぶのに理由を聞く人はいないし、花が咲くのになぜかと問う人もいない。それと同じように、僕が写真を撮るのは、もはや理由を超えた本能みたいなもの。
「これ、すげえだろ!」を探すのも、想像力を働かせるのも、街を歩いて宝物を見つけるのも、全部「僕であること」の一部。だから写真が好きなのは当たり前で、撮り続けるのも当たり前。
副産物と主軸の整理
誰かの役に立てばいいな、誰かと共感したいなという気持ちはもちろん持ち続けます。でもそれはあくまでも副産物であって、僕がいいと思ったから書く、撮る。これが全てです。
「誰かの役に立てばいいな」「誰かと共感したいな」という気持ちを否定するんじゃなくて、それを「副産物」として位置づける。
主菜は「僕がいいと思ったから」で、共感や役立つことは「おまけのデザート」みたいな感じ。デザートがあったら嬉しいけど、なくても満足できる食事になってる。
結果的に、このマインドセットの方が、実は人に響く作品が生まれやすいのかもしれません。純粋な動機から生まれたものって、不思議と人の心を動かす力がありますから。
現代を生きる僕たちに必要なこと
この話は写真に限ったことじゃないと思うんです。
SNS全盛の現代って、どうしても「他人の評価」が気になりがち。「いいね」の数や、フォロワーの反応、世間的な評価に一喜一憂してしまう。
でも本当に大切なのは、自分が「これ、すげえだろ!」って心から思えるものを見つけて、それを大切にすること。他人の評価は副産物として楽しんで、でも主軸は自分の感動に置く。
仕事でも、人間関係でも、趣味でも応用できそうですよね。
「なぜこれが好きなのか?」「なぜこれを続けるのか?」
その答えが「僕だから」「私だから」になった時、きっと脳のリミッターは外れて、もっと自由で豊かな人生が始まるんじゃないでしょうか。
あなたの「これ、すげえだろ!」は何ですか?
この記事があなたの何かの役に立てば嬉しいですが、まずは僕が書きたいと思ったから書きました。それが一番大切なことだと、今の僕は確信しています。